文脈をもった私たち
インターネット上で繋がり、SNSなどのプラットフォームで大小さまざまな規模のコミュニティが生み出されています。かつてマスメディアが唯一の情報提供者であり、全員が同じ方向を向き同じ情報を共有し同じ価値の下で生きてきました。その唯一の価値に合わなければその人は負け組となってしまうような競争社会でした。しかしコミュニティの多様性により、誰もがそれぞれのコミュニティで自分の強みを活用し生きる事へのモチベーションを維持しています。もはや全員が同じ情報や価値を見てはいません。スマホを介して見ているものは皆バラバラで属している社会もそれぞれ違うのです。
唯一絶対の価値基準がないという事は、人は必ずしも全員が競争相手ではなくなります。小さなコミュニティの中で他に変えが効かないポジションを獲得すればいいのです。そしてその獲得行為は他の候補者との争いの中で起こる事ではなく、それぞれが適材適所で輝かしい活躍を果たすという社会を生み出すための行為なのです。世界には国や人種、マスを対象にした価値観といったものだけで境界線を引いているわけではありません。そういった振り分けを超えた無数のコミュニティが地球上に存在しているのです。つまりそれだけの数の価値基準に対する信仰が人類の生きるモチベーションを生み出しているわけです。
こういった無数のコミュニティをまるでローカルな場と捉えるならば、世界70億を相手にする事はグローバルな舞台かもしれません。例えばローカルコミュニティで自分の専門性を深く深く掘り下げて世界観を作り上げ、そこから重要な部分(本質的な部分)を抽出し、もっと不特定多数の人に理解されやすくなるような仕様に変換すれば70億相手のグローバルな舞台で自分を認めさせることが可能になるのではと思います。70億人全員を相手にするという意味ではなく、世界には自分に対する潜在的理解者があちらこちらに存在している可能性があるわけです。ですから、まだ見ぬ彼らに向けてどうアプローチするかという事です。そのようにして自分のファン・理解者を増やしていけばそれ相当の規模の活躍の場が生まれるわけです。それはビジネスとしても成立するぐらいの規模でもあるでしょう。
このようにして、いかに自分の専門性を突き詰められるかがこれからの社会を生きていく上で大変重要なカギになっていくはずです。つまりバカになるまで専門性を極められるかです。それが誰にも深められたことのないレアなものであればあるほど有効性があるでしょう。なんでも平均より上のレベルでやりこなせてしまうようなホワイトカラーのような人はあまり価値がなくなってくると思います。例えばそれはAIにとって代わられるような大変危うい能力です。物事はスペシャリストの集団で成し遂げられていくでしょう。ここには、一人のカリスマではなく多くの人間の所業によって物事は成り立っているのだというロジックが隠されています。もうマスメディア上で超有名になったカリスマだけが絶対的価値ではないのです。カリスマとそれ以外はそのフォロワーという二分した構図で我々の社会は成り立っていません。
自分自身の文脈をいかに作れるか、それを小さいコミュニティとして世の中に認めさせる事、やがてはそこから世界仕様でアピールしていく…これはアートの分野においても言える事です。文脈の多様性により、アートはやがて一部の人間だけが楽しむ文脈のゲームから解き放たれて、もっと人間の感動(審美的感知)に訴えるようなメディアとして向き合うようになり、ついには人間と一体化してしまうのではないかなどと思うのです。アートという概念なんかいらなくなるかも…。
ー藤谷康晴・ドローイングマン