予定していた個展を中止にした。こうなる事は会期が迫って来る中で頭の片隅に置いていた。延期という選択肢もあった。しかし、中止にした。9月前半の空きに合わせてモチベーションを維持して待機できるのかと自身に問うて、無理だろうと判断したからだ。元々、おおかた出揃っていた発表の場を待っていた作品シリーズを、ここならいいかなと急に決めた展示プランだった。勢いで決めたものはその勢いのまま成し遂げるのが一番いい。時間を置くとその勢い自体がしぼんでいく。表面張力そのままに延期日程まで保持する自信がなかった。
今回の個展はアプリを使ってスマートフォン越しに絵を見ると作品が動き出すというARの仕掛けを用意していた。観に来ていただいたお客さんにARを楽しんでもらいそれを動画にしてSNSなどで発信してもらえたらと思っていた。オーナーさんとはウェブ配信型の発表の可能性を検討していたが、やはり生で観てもらわなければ意味がないという事を第一の理由に中止を選択した。それはARだから生で見せたいではなく、絵は生で対峙するべきだという回答である。
撮影による画像や映像で見る絵と現場で対峙する絵にどれだけの違いがあるのか。という問題は突き詰めれば本当に大きなテーゼだと思う。絵は基本平面である。それはつまりネット画像上に最適なフォーマットである。日本の伝統的平面描写であればなおさらの事である。それは考え方によってはSNSやホームページで本物遜色なく伝わりやすいメリットと捉える事も可能である。しかし、場で対峙した平面作品はWEB上で見た画像よりもはるかに生々しく立ち現われる。それはただ、画像で見ていたものが生で出会えたといったような向き合い方の違いではない。明らかに画像よりも実際の絵の方が現実的に美しいという事だ。画像では伝わらない、眼で感じる触感といったような実感である。生きている絵と遭遇したという感覚を起こす体感といったらいいだろうか。たとえ優秀なカメラマンに撮ってもらった写真でも捉えきれない絵の実体感である。使い古された平面絵画というメディアにそれでもまだ期待する表現の力を追求する現代の絵師としての執念のようなもの。デジタルテクノロジーが格段に進歩していく中で話題になる体験というキーワード。VR・AR・ホログラム・プロジェクションマッピングといった手段が人類に新しい体感を与えてくれる。体験とはとても原始的な経験だ。それをデジタルが再発見させてくれる。体感の醍醐味を。この時代にアナログ平面に何が出来るか。デジタルインフラに作品を載せて広く発信させるといったような事ではなく、デジタルと同じように体験・体感というテーマそのものに取り組めるだけの可能性である。私はこの部分の可能性というものを信じている。
コロナ禍情勢の中で、突き付けられる新しい生活スタイル。芸術の分野においても自粛の中、美術館やギャラリーにおける発表の中止・延期が相次ぐ。ウイルスとは今後も共生していかなければならないだろう。ウイルスが我が物顔で立ち振る舞っているのは情報や生活インフラ、物、そして人が集中した都市空間である。数と回転率を優先すれば人が一か所に集中する。客単価を上げ、本当に求める人にゆっくりとサービスを提供すれば自然と人工密度は下がる。究極はある場所における1対1のサービスだ。これほど心に余裕をもって体感を経験出来る状況もない。本来人間が経験すべきはこういう時間なのではないか。例えば、美術館の展示を中止や延期にするのではなく予約制や客単価をもっと上げるといった方法をとれば本当に観たい人しか行かないであろうし、混雑した中なんとなく全体を観て終わるといったようなよくある話題の展覧会の状況にもならない。そうすればウイルスの蔓延は防げるし、鑑賞者も上質な芸術鑑賞体験をする事が出来る。体験を得るのだ。もちろんそれを実現するには色々な問題を解決しなければならないだろう。しかし、コロナウイルスが突き付けたのはまさに文明がよかれと思って目指し築き上げてきた生産性と利便性を究極にした都市文明の危うさである。今、本当に生き方・生活の仕方、そして体験というものをもう一度考える時期に来ているのではないか。
「何もしない」ではなく、「何を大事にするか」をこのコロナ禍情勢の中で本気で考えなければならないと思うのだ。